〜 神様との関わり、信仰に至るまでや、主への賛美など 〜
ここにあるのは、そういう私たちの喜びがつまった「あかし(証し)」です。
このカテゴリーには、一般の教会員のあかしがあります。
スタッフのあかしもどうぞ
新しい私 MY
救いのあかし YH
私は神様がいらっしゃることは知っていました。時には、感謝の祈りをすることもありました。しかし、多くは神の存在を忘れた生活をしていました。物事を楽な方へ考え、行いの結果が良い時は自分の努力の賜物と思い、うまくいかない時は他人のせいにし、悪意とねたみの中で有頂天になったり、落ち込んだりするような愚かな生活をしていました。5,6年前から毎月クリスチャン新聞を届けて下さる織田様が近くにいらっしゃいました。その織田様が「家で集会をしようと思うけど来られる?」と誘って下さいました。それが、山脇牧師先生との出会いでした。聖書の学びをするうちに、自分が罪人であり、イエス様が罪人を救うために、この世に来られたこと、そして、十字架に架けられたイエス様を通して神様とお話が出来るということがわかりました。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」Iテモテ1:15神の御心にかなう生活をしたいと思います。信じた後は、「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。」ヨハネ16:24このみ言葉に勇気づけられます。これから、何でも祈り、神様に身を委ねて行こうと思います。
聖書のことばと賛美歌によって 森 昭三
大阪に大きな集会があったので、連れられて行きました。
その時、聖歌480番の賛美の独唱がありました。
すごく、感動し、救いの招きがあった時、自然と前に出ておりました。
その後、どのように祈ったらよいかたずねた時、ヨハネ伝3章16節のみことば「神はそのひとり子をたまわったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」との聖書のことばを何回も、声を出して読み覚えました。
いつの間にか、祈りの姿勢をとっていたようです。本当に悪い思いから離れ、イエス様の愛と救いを覚えるものとされていきました。
このイエス様に愛されている喜びがあふれ、汚れた罪からの解放とゆるしをいただいた大きな喜びで、朝も、昼も、夜も、賛美を口ずさんでいました。そして、聖書を良く読めるように、へたくそな読み方だけど、読み続けられるよう助けて下さいと祈りました。
イエス様はどんな時でも、いつもいつも助けて下さって、弱い私を強くして、明るい力を下さり、大声で聖書を読み、また、みことばを書く事を教えていただき、毎日毎日イエス様と生きている幸いを実感しています。
神様に愛されて Y.K
高校3年の秋、はじめて聖書に出会いまた、教会の信徒の方々に出会い、私は変えられていきました。み言葉を学ぶことで心が潤され、教会の先輩方を見て、「私もこんな風に年を重ねていきたい」と願わされました。それから、3年間、神様は様々な出来事と出会わせ、色々な経験を与えてくださり、また、多くの方に祈られて20歳の秋、受洗の恵みにあずからせてくださいました。
神様に出会う前は、愛されている実感がうすく、自分が嫌いで何かに懸命になっていないと不安でしょうがない私でした。でも、神様はそんなちっぽけな私にさえ目を留めて下さり、
『あなたは、私の目には効果で尊い。わたしはあなたを愛している』とみ言葉を通して語りかけてくださいました。『いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝せよ』(Tテサロニケ5:16〜18)このみ言葉を心に新しい一歩を歩みはじめた20歳の秋、あれから16年が過ぎた今、たどたどしい歩みではあるけれど、変わらぬ神様の愛を感謝し、喜びを数えつつ日々過ごしたいと願わされています。
救われた喜び 榎本 岩夫
自宅が教会の近くあり十字架を見上げながら会社に勤めておりました。しかし私の心は固く教会に行くことを拒んでいました。ある日の夜、(日曜日)知らずに教会の門をくぐっていました今思うと神様の導きであったと思います。伝道集会の夜でした何も分かりませんでしたが兄姉の暖かいもてなしと、先生の「良くいらっしゃいました」との言葉に心に安らぎがありました。それからは教会に心が引かれ、ある時、聖書の言葉が私の心に語りかけられました。マタイ4:4イエスは答えて言われた「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と書いてある。このみ言葉によって私は変えられました。
今までは誰からも批判されないで自分の道をしっかりと進んでいく事が私にとって大切であると思っていましたが、もっと自分にとって必要なことは神様のみことばをしっかりと心に蓄えて主に従って行くことを知りました。そして結婚、クリスチャン家庭を建設し、信仰生活を今日まで歩んできました。残されている期間はどれだけか分かりませんが、信仰の創設者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。と語られている主に愛をもって仕えて行きたいと願っています。
イエス様に変えられた私 船越 武司
去年の12月頃、妻がイエス様を信じるようになり、私は22才の時に聞いたイエス様のことを、いつも忘れないでいました。ボチボチ教会へ通う時、ちょうどその頃、私は仕事の関係で腰を悪くし、仕事を退職しました。家にいる時間がたくさんあるので、私はパチスロに毎日通っていましたが、むなしい気持ちでいっぱいでした。日曜日には、妻と一緒に教会に行き、みことばを聞いて神様のことがわかるようになり、兄姉の交わりをしていて、だんだん教会はいいなあ、と思うようになりました。イエス様が私の罪のために十字架にかかってくれ、3日目によみがえって、今も生きていることを信じます。聖書を読んで落ち着きが与えられます。このみことばのいう通りにしていきたいです。また、交わり会でくわしく神様のことを知るようにしていきたいです。
神様への思いで心はいっぱいで平安です。これからは、神様の前にへりくだり従っていきたいです。神様が私に健康と力を与えてくださり、仕事ができていることも、とてもうれしいです。毎日、神様に祈る時、とてもありがたい気持ちになります。また、賛美を歌っていると心がよろこびでいっぱいになります。
イエス様に感謝します。アーメン
イエス様に愛されている私 播磨 治子
そのような生活をしている中で、妹が教会に導かれ救われたことがきっかけで、妹に勧められて教会に通うようになりました。初めは教会の雰囲気に馴染めず、続ける自信がありませんでしたが聖書の学びを受けてみたいと希望して、学びを受けることが出来ました。
その学びの中で、自分が罪人であること、イエス様が私のような者の為に十字架にかかり身代わりとなって下さったことを知りました。今までのすべての罪を悔い改め、イエス様を信じ救われました。
救われてからの私は、このような私でも神様は愛してくださる。また、愛されている存在であることを知りました。そして、今の生活は毎日感謝と平安で満たされています。世間の人の目を気にする事無く、神様を意識し、神様を喜ぶ生活をすることが出来ています。
神様を知らない人に、この喜びを知ってほしいと、いつも思っています。

